(こんにちは!とんちゃんです。
私の「迷い」と「決断」についてお話させていただきます。
31年生きてきて、沢山の迷いもありましたし、決断もありました。
と、言ってもO型のとんちゃん。いくらでも迷えるのですが、なかなか決断が出来ない私が
本気で腹に誓った決断は数える程度しかない中の一つです。
私は、今、母親業が私の全てなくらいに、子供の事ばかり考えているのですが、
恥ずかしい話ですが、昔からそうだった訳では無かったのです。
19歳で出来ちゃった婚をした私たちですが、
貯金ももちろん無く、旦那の手取り11万円と言う少ない給料でアパート生活。
本気の貧乏でした。
それでも何とか生きていたものの、
22歳で次女を出産し、長女を保育園に預けるとなると生活できなくなりました。
そこから、まともな生活を送るため、
専業主婦であった私が必死で労働する決意をしました。
結婚するまで、夜働いていた仕事場に復帰し
主人の会社は副業禁止だったため、
昼間パート勤めができる私が
昼、夜と働くようになっていました。
夜帰宅は3時から4時。睡眠時間は3時間ほど。
昼間のパートから帰ってきて子供達の夕ご飯だけは必ず作って、旦那に子供達をお願いしてから出勤していて
子供達と一緒にいれる時間は朝の1時間と夕方1時間の2時間でした。
子供達がママのパジャマを抱きしめて眠っているのを見るのが何より辛かったです。
それでも安月給の旦那に大黒柱は任せられない。と夫婦で決めていたので労働地獄から抜け出そうとは考えられませんでした。
人生の後悔に気づいたきっかけ。
子供達も大きくなってくると
「今日もママお仕事なの?早く帰ってきてね」と寂しいけど、仕事だから仕方ないと言う子供達の気持ちの葛藤が伝わるようになりだし、
このままじゃいけない。と思うようになってきました。
そんな時、長女がおたふく風邪にかかりました。
おたふく風邪。周りの子たちはほっぺが腫れた程度だったと聞いていたのですが、
長女は40度の高熱、吐き気と重症化しました。
さすがにパートも夜の仕事も休まねば!と思い休みたいと電話をかけるものの、勘付かれていたのか、一切電話に出てもらえず。
泣く泣く祖母に長女を預けて3日間出勤したのです。
その間、長女は一番側にいて欲しかったママが居ない間、本当に心細かったと思います。
そう気づいていながら、なぜ私は仕事を取ったのか。。。辞める覚悟で休むべきだったのだと思います。
高熱が続き5日目にやっと休む事ができたのですが、夜、長女は引きつけを起こしました。
大事には至らず、その後回復していったのですが、
辛い時にママが側に居てくれなかったさみしい記憶は今でもずっと覚えているようです。
このおたふく風邪をキッカケに
労働と金に取り憑かれていた自分に気がつき
もう、遅いかもしれないけど、子供達の為に生きたいし、子供達の為なら全て台無しになったとしてもいいと思わないといけない。と強く思いました。
それから旦那と話し合い、
仕事を辞めて子供達の為に生きると話しました。旦那には転職してもらい
今まで私の労働地獄で稼いだ資金で夫婦で投資を始め、今の月収7桁の旦那があります。
もう、幼い頃の子供達の孤独な記憶を消してあげれる事はできませんが、
今、子供達はママがいてくれて幸せ。と話してくれます。
「きっと幾つになってもママが家に居る事を嫌だとは思わない」と子供達は話してくれます。
私の幼い頃、学校から帰るとたまに、お母さんが家に居た時の安心感や嬉しさが今だに記憶にあります。
安心して帰ってこれる場所と言うのは
子供達の心を育てるのに、大切な事だと思っています。
仕事はいくらでもありますが、子育てと、子供の成長はその場しかない事。その一瞬は今しか無く、逃したら取り戻せない事。
私が生きる意味は労働と金ではなく、子供達を立派に育て上げる事と固く決意しました。
不器用なので、仕事と育児の両立を目指したものの、育児をとる決断をしたのです。
実際、専業主婦になってみて、意外と仕事を持たない母親とは、批判が多いし、沢山嫌味も言われます。
世の中は働けー!!働けー!!と促してきますが
私は、労働が全てでは無いと思いたい。
周りに何を言われようが、育児と真正面から向き合う事は悪い事ではないと思っております。
読んでいただきありがとうございます。
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